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日本語を自由自在に操っている

大沼法竜さんの本はすごいですね。日本語を自由自在に操っている感じがします。ということで、また書写しました。

15 短命

 因果経に「命も短く子もなきは、殺生したるその報い」とありますが、三歳くらいで水死体になったり、五歳くらいで焼死体となったり、七歳くらいで事故死をしたり、結婚式場に行く仕度をして玄関で草履をはくとき頓死をしたり、ある医学博士の七歳になる娘が危篤、母親は狂乱するほどの悩みで、他人の子供が助けられて自分の子供が助けられないのかと訴えられるが、寿命はどうすることもできない。法話に行ったとき、ご主人が釣りが好きで、日曜には必ず行かれることを知らないで、因果の道理として無益の殺生をすれば家族のものに必ず不幸がある。私が子供のとき、親の目を盗んでは釣りに行く、母はこれを戒めて、殺されるものの身になってみよ、どれだけ苦しむか、その恨みと呪いは必ず報うてきて、自分が夭死をするか、家族の子供が死ぬかすると言っていましたが、一歳の娘の児の頭にクサができ、薬を塗り、つぎの日にカサブタをのけて頭全体に薬を塗ってもらったが、家に帰り着くまでに死んでいた悲しみを法話したら、博士はすぐに釣りをやめられた。
 主人が鶏の首を絞めている。家内がもう少し絞めねば死なないと応援していた。その晩、家族中ですき焼きして食べたのだろう、五歳の子供の葬式にゆき、事情を聞いたら、一銭(昔の一銭は大きい)もらって、寝転んでくわえていたが、「お婆ちゃん、喉へ入ったよ」さあ大変、近所の医者では出ない、小倉の記念病院にゆく。外科の部長は帰宅された後、電話をしたら友人と食事にゆかれた。探し出して病院に来てもらってようやく出したが、前の医者が目くら滅法に食道を破っていたから助からなかった。本人はもちろん、両親、親族も共業で苦しんでいた。前の話に当ててみますと、主人が鶏を絞めているのが、一銭玉を呑んで苦しむ子供、もう少し絞めねば死なないと応援しているのが両親お婆さん、一緒に食べたものが葬式に立って泣いている親族のもの、共業(共同に苦しむ)といわなければなりません。せっかく人間に生まれながら、八十九十の長寿の保てる人もあるのに、わずかな寿命で地上を去るとは、親たちは一体どうすればよいのでしょうか。五歳の男児を喪った母親に対して法話をしました。人生は苦が半分楽が半分の世界で、心の持ち方では楽な世界ともなれば苦しい世界ともなる。この人生にわずかな寿命しかないとすれば、悪い方から見れば苦悩の世界に沈んでいますから、救ってやる責任がある。よい世界からあなた方の信仰心のないのを見て悲しんだ祖先が、子供となって生まれて来られたとすれば、犬死にをさせては申しわけがない。どちらにしても、親が信仰に入らなければ子供は救われません。死んだ子供に逢えるのなら、金の草鞋をはいて世界中を回ってもよいです。そのころ私は、市内で毎晩説教していますから参詣しなさい。一か月ぐらい参詣して、「私は聞き開けないからやめましょうか」「あなたは金の草鞋で世界中を回ってもよいといわれたが、下駄一足も減ってはいませんよ」すみませんすみませんと泣き泣き求めていますので、主人が父親を呼んだ。「おます、お前は死んだ一人の子供が可愛いかい、残っている四人の子供が可愛いかい」「自分の子供ですからみな可愛いです」「死んだ子供には手が届かないのだから、生きている子供の世話をよくしてやれ」「お父さん、生きている子供を飢え死にはさせません。死んだ子供が鬼の手に渡って虐められているかと思えばいじらしくて、私が済度してやらなければ誰が助けてやるのです」「死んだものは仕方がないではないか」「仕方がないと捨てておかれるのは、慈悲がないからです」「お前が病気になったらどうする」「私は死んでも、子供を助けてやりたいのです」「芳さん(主人の名前が芳次郎)私が意見しても、子供可愛さの一念で聞き入れないから、この娘が笹をかついで歩くようになったら引き取るから、どうぞ大安心するまで置いてやってください」と父も涙を流していました。親や主人に心配させて申し訳がないと必死になり、夜中に仏前で泣き崩れ、これほどの悪人を無条件で救われるとは絶対他力であった。私の善悪が助太刀にもならなければ邪魔にもならない、善も欲しからず悪も恐れなし、無条件の救済とはこのことであったかと躍り上がって喜んだとき、主人が飛び出してきた。主人の膝にしがみついて、今日までの求道をよく許してくださいました。唯の唯とはこんなに安い、苦抜けさせていただいたとは、嬉しさに喩えようがありません。死んだ子供を救ってやろうと思ったが、そうではなかった。祖先の人が、私たちが仏とも法とも思わず暮らしているのを哀れに思し召して子供に生まれ、蝶よ花よと育てるとき露の生命をなくしたのは、お母さん人生は夢ですよ、無常ですよ、あてになりませんよ、早く後生の用意をしなさいよ、姿にかけての説法をしてくれたので、私が救ってやるどころか、子供が私を救ってくださったのであったと大慶喜をしました。
 心配でたまらない父親が、その後の様子を見に来た。「おや、晴れやかになったなあ」「お父さん、浄土真宗の信仰は死んだ先のお助けではありません。いま心の目を開くことです。あの子が死んで私を救ってくれたのです」「よかったよかった俺が負けたよ」「お当さんを謝らせるつもりで行ったのではありません」一通りの聞き方で合点したのでは、大慶びはでません。その後、主人を引き込んで夫婦ともに寺の中心になって世話してくださったが、尊いことでした。
 世の中の両親が、短命の子供を持たれて徒に泣き悔やんでも、生き返りはいたしません。ふたたび逢える世界が信仰の世界です。これを御縁に求道すれば、自分も救われ、子供も救われるのです。

16 長命

 因果経に「長命無病のその人は、慈悲心深き恵みなり」、みな長命を望みながら長寿の保てないのは、なぜでしょうか。それは身体を酷使するからです。心に感謝の気持ちがないからです。暴飲暴食色狂い、夜更かし賭け事を徹底的にやり、必要以上に精力を消耗するからです。また心の方は、名誉や利益の方に狂わされ、人を呪い世を呪い、心に平和のゆとりがないからです。
 信仰によって心の向きを換えなければなりません。聖人は、
 山家の伝教大師は  国土人民をあはれみて
 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏を称うべし
といわれてありますが、念仏を称え、信仰を獲れば自然の徳として身心悦予とて、心が満足するから笑顔となり、健康になれるのです。形のある名誉や財産は破産失墜することがあり、その都度心まで不安動揺するけれども、信仰が確立すれば見るもの、聞くものすべてが楽しく、何の屈託もなく不安もなく、生活ができるから長寿が保てるのであります。この世でできたことはこの世で片付く、蒔いた種が顕れたのだと諦めるから煩悶悩乱しなくてすむのです。
 しかし長寿を保っても、貧困の生活をしていては何の楽しみもありません。裕福の生活をするのは布施親切をした果報です。母が亡くなった後に、父が岩国で独りで暮らしていたから、不自由ですから八幡に来なさいと言ってもなかなか来られない。「孫が多いから嫌ですか」「孫は好きなのだけれども、お前のところにゆくと和上のお父さんというので、いつも羽織を着て座布団の上に座っているのが窮屈ですから」「そんなにせんでも、屋敷から山にかけて三千坪からあるから仕事をしてくださいよ」「肥え桶かついで山仕事をしてもよいなら行く」いよいよ引っ越しされたら、よい火鉢や洋服ダンスやら高価な品はみな売り払って、鍬や鎌やシャベルばかり持ってきて、毎日毎日笹藪を整理して、大根、茄子、水菜を食べきれないほど作って近所に配っている。食事の部屋から下を見ると、伊東の裏庭の松の茂っているのがみっともないと言っていたが、破れパンツのままで伊東に行って「裏の庭を掃除させてください」老婆が煙草を売っている。「いいです、お金はいらない只で掃除させてください」「どこから来ましたか」「上の寺からです」「寺男ですか」「住職の父親です」「まあ和上さんのお父さんですか、勿体ないからいいです」「私が好きなのだから、させてください」と言って、二日がかりで松造りや掃除までして帰って上から眺めて、ああサッパリしたと奉仕して自分で喜んでいる。
 自分の身なりなどちっとも贅沢なことはしないが、寄付なら一番先にする。朝はパンにコーヒー、昼と夜はお酒一杯にご飯は一膳、お客に行っても決して度を過ごさない。「今ごろはお酒が高くなったから、昼だけはやめようか」「門徒は千軒以上もある。役僧さんは六人いるし、幼稚園児は三百名もいるし、私も布教に出ます。何の心配もありませんから、飲み干すまで飲んでください」と言ったら、ありがたいのうと喜ばれる。あるとき孫娘が「お爺ちゃんはこのごろ、なぜお酒を飲まれないの」「今は口のところに瘍ができているから飲まれないの」「治ったらたんと飲ませてあげなさい」と言ったのを聞いて、やさしい孫じゃと言って興亜石油の三千株を美子の名義にされた。毎月小遣い銭を一万円あげた。「いらんいらんハワイからも送って来るし、俺も持っている」「いいですよ、持った方が楽しみでしょうが」「それは持たないよりは気持ちはよいけれど」私が広島に親鸞会館を建てると言ったら、百万円寄付してくださった。その月から、二万円ずつあげることにした。皆さん、親にはお金をあげて不自由させなさんな、銀行利子よりは遥かに利回りがよいですよ。
 父は若いときから寺参りが好きで、村の人たちを次から次に誘っては参詣させ、骨身を惜しまない、自分は倹約して寄付は率先してする、節食はする、奉仕はする、真理に適っているから病気はせず、九十歳の長寿を保ったのですから、私も真似をしようと心掛けてはいるけれども、父のように規則正しくはいかない。父は信仰によって常に心を平静に保ち、名利を離れ色欲を慎み、頭は使わず適度の運動をして、自然の道理に適っていたから長寿が保てたのだと思います。
 人々は短命を嫌い長寿を願いながら、その原因を知らず、その根本を無視して実行せず、立派な結果をいようとしても筋の通らぬ話ですから、心身ともに消耗して、この世も煩悶悩乱し、未来も苦患を受けなければならないのですから、静かに反省しなければなりません。
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